思い出 写真集

懐かしの大野小学校



毎週月曜日は校庭に全生徒が集まり児童朝会が行われました。

上空から捉えた校舎全景。

校舎裏手に大野小学校の校章が描かれています。ドローンが無い時代ですから

ヘリコプターにて撮影したと思われます。 高度成長期のいざなぎ景気辺りでしょうか。

いずれ当時の有志の方々の尽力で撮影されたものと感謝します。

 

校舎入り口が右側に見えます。窓が開いている事から季節は夏でしょうか。



こちらは昭和39年に撮影された上空からの大野小学校。

愛らしい「大野小」の人文字が印象的です。奥に見える講堂(体育館)は

建て替え間近の昭和40年代後半に床から浮き出た5寸釘の頭で生徒が

膝の大怪我をした経緯もあり床を鉄の釘を使わない木釘を使用した床へ

の工事が行われました。真新しい床、それはとても綺麗で凸凹が無く

真っ平な床でありボールを軽く叩いただけで手元に跳ね返ってくる

バスケットボールに驚いたものでした。大野高校バスケットボール部

が開校間もなく強豪校入りした秘密も旧講堂で鍛えられた賜物だった

のかもしれません。

 

校舎脇にあった滑り台の様な物、面白がって滑ってみると全然滑らない

どころか服にペンキがこびり付き家に帰って怒られる。

これって何だったのでしょう。避難用?

余り行く機会が無かった校舎裏側。

のちに、現在の新校舎がこの地に建設される事になります。

 

昭和50年6月に行われた運動会は小学校新築中の校舎の関係で

大野第一中学校のグラウンドで行われました。またこの時期、

大野小学校100周年記行事として生徒一人ひとり、

赤ちょうちんを持ち全校生徒が行列を組んで村内を練り歩きました。

 

高学年になると秋の遠足で山に入り釜戸作りから始まる自炊料理が

美味しかったですね。おやじ化した今では自家製燻製料理にはまっ

ています。

 

【建設中の大野小学校」

昭和53年に落成した新校舎。私はこの年、卒業で新校舎で

学ぶことは出来ませんでしたが先生が内緒で完成前の新校舎に

入らせてくれたのです。近未来的な校舎に凄く驚いた記憶を

今でも鮮明に憶えています。特にワイドになって大きくなった

黒板とスイッチ一つで暖房が入る設備には驚いたものです。

大野小学校の歴史 名称遍歴

明治8年1月  大野小学校創立

明治19年   小学校令により大野尋常小学校に改称

昭和16年   国民学校令により大野国民学校に改称

昭和22年   学制改革により大野小学校に改称

昭和50年   勝率100周年記念行事として式典開催 

岩手県立大野高等学校

 

昭和23年創立の大野高校は今年(平成30年)輝かしい歴史と

共に創立70周年の記念日を迎える年となりました。当HPでは

誕生4年で岩手県大会優勝の奇跡を通じ大野高校の歴史と暗雲の

過去を踏まえお伝えしたいと思います。

 

昭和48年、独立前の校門表札には久慈高等学校大野分校と記されている。

【昭和49年5月28日 岩手日報】

昭和23年5月21日、岩手県立久慈農業高等学校定時制として

創立した大野高校は昭和49年に久慈高校から完全独立を果たし

岩手県立大野高等学校が誕生。

 

高総体、堂々の入場行進

【昭和49年4月30日 岩手日報より】

昭和49年4月 大野高校誕生を記念して開校記念式典には来賓、

父兄、教職員、生徒合計730人が参加し盛大に行われました。

 

開校から間もなくして大野高校の快進撃が続く事となります。

 

昭和48年12月の岩手県議会において独立昇格が決定し、その月の

25日には開校祝賀パレードを開催。この年には生徒数も270人を

超えるまでなっていましたがさらにこの後も生徒数は増え続きます。

 

開校した昭和49年10月には記念すべき第一回ロードレース大会が

開催。中学生時代のマラソン大会から倍の10㎞となる距離はとても

果てしなく感じ私は途中で音を上げました。

 

独立2年後の昭和51年、林郷地区のスクールバスが運行

翌年には向田地区スクールバスも運行開始。

 

大野高校文化祭。今はどうかわかりませんが当時は大野の

一大イベントでした。憧れの喫茶店に幽霊屋敷目当てに

ドキドキしながら中学生は大野高校に向かいましたね。

 

昭和51年の文化祭。

女子応援団長の腕を真っすぐに伸ばし凛とした後ろ姿が印象的です。

 

大野高校誕生から3年で女子バスケットボール部は新人戦で3位、翌52年

には、なんと県大会で優勝という快挙に3日間の激闘を制し大野に帰ってきた

選手を称え村民500人が迎え祝いました。大野高校は初優勝をきっかけに

常勝を続けどこに行っても大野といえばバスケット強豪校と言わしめるまでに

なったのです。

 

大野高校女子バスケットボール部 初優勝までの戦歴

昭和52年 第29回 岩手県民体育大会 バスケットボール大会

1回戦 大野高校 対 水沢高校   130対23 勝利

2回戦 大野高校 対 宮古商業高校  97対91  勝利

3回戦 大野高校 対 一関修紅高校  88対77  勝利 

準決勝 大野高校 対 一戸高校    73対68  勝利

決 勝 大野高校 対 盛岡市立高校  87対72  優勝

まさに激闘を勝ち進んでの優勝であったとこに今更ながら鳥肌が立ちます。

男子においても女子バスケットボール部優勝の翌53年にはベスト8に輝き

内澤・猪鼻選手の2人が岩手選抜に選ばれ東北大会へ出場するなど初優勝をきっかけに大野高校バスケットボール部は長きにわたり常勝高となり大野を沸かせ大野の誇りとなったのです。


大野高校 野球部の奇跡 

 

2002~2007年にかけての大野高校野球部の大活躍に大野が沸きます。

2007年、夏の甲子園を目指す大会では準々決勝まで勝ち進んだ無名の大野高校とシード高でもある強豪一関学院との試合の模様が岩手テレビ朝日にて生中継され互角に渡り合う大野高校にアナウンサーも声を詰まらせ「いやぁ、、、これは、、、大野高校がここまでやるとは。。。」と、言わしめ、その活躍は翌日の新聞一面を飾るほどだったのです。大野町民が夢にも思わない甲子園出場を現実に感じられた年でもありました。


 

昭和59年まで大野高校はバイク通学が可能で初期の頃は講習が行われ

ていた様ですが私の頃は講習をした記憶がありません。申請して

許可が下りればバイク通学ができる状態だったと思います。

2年生からバイク通学が許され、それまで自転車通学だったのが

スロットルを回せば半自動的に学校に到着するバイク通学に

ひどく憧れ驚き、開校間もない血気旺盛な生徒によっては

間違った方向へ向かう者も現れ関東まで勢力を広げた伝説の暴走族

「黄金虫」も生まれたほどでその影響を受けたのか大野高校は徐々に

荒れて行ったのです。

【1979年5月23日付 岩手日報】

少年非行のピークは三つあると云われています、第一のピークは敗戦占領時の1951年、第二は1964年の高度成長期、そして低成長期に入った1983年を最もピークとする第三時代から最近の第四までと続いて行くのですが大野にも汚点を残す事件が最もピークと云われる第三時代に起こりました。どれだけ荒れていたのか今となっては説明しずらいのですが1980年代に放送されたTBS「スクールウォーズ」状態だったと云えばわかりやすいでしょうか。

 

各新聞に掲載されたこの事件は職員室襲撃という教師暴行事件にまで発展し大野高校は全国に汚点を残します。