大野は昔、宿場町だった、八戸藩一帯を支える鉱山があった、など大野の歴史を紐解きます。
大野が最も繁栄していた江戸時代
時は遡ること江戸時代、日本の鉄産業を支えた鉄産地として栄え大いに繁栄した地域が2つあります。
ひとつは出雲地方、そして我が南部地方でした。鉄が重要視された時代、現在で例えるならばレアメタル
以上の供給が世界的に求められた時代であったと思われます。そんな江戸時代に日本の神風鉱山とも云える
一大産地が大野鉄山で有った事をご存じですか。大野には豊富な鉄鉱脈と良質な砂鉄があり、またその加工に必要な木炭も豊富であった事も重なりのちの近代的洋式洋高炉を初めて築いた南部藩士、大島高任の登場で南部鉄は高価な出雲鉄を次第に凌駕していきます。
【四合吹製錬図】
江戸時代の南部藩は日本経済を支えた鉄の一大産地でした。その中でも盛岡南部藩の岩泉江川鉄山そして
八戸南部藩の大野六カ鉄山が当時の藩政を支えた中心であり、しいては日本の財政を支えていた時代があったのです。
【八戸藩糠塚部と呼ばれていた頃の主要鉄山を記した地図】
右側に囲い文字で「八戸」の文字があります。中央部やや左に太文字で「大野」と
記されているのが分かります。
大野六カ鉄山とは大野の水沢鉄山、軽米の玉川鉄山に葛柄鉄山、種市の大谷鉄山(御鉄山)旧山形村の金取鉄山、久慈の滝山鉄山(多任昇山)を指します。
【八戸藩 大野六ヶ鉄山 判形政】
大野は八戸、久慈の中間地点であるばかりでなく種市、軽米の中間地点でもあり物流の拠点でも有った事から行きかう人々の宿場町としても大いに栄えたのです。特に大野、明戸地区がその中心であり上記地図でも大きく書かれていることから要所であった事が伺えます。大野六カ鉄山で作られた鉄は八木湊へと運ばれ八戸湊を経由し中央へと供給される経路と久慈湊から直接運ばれその良質であり安価な鉄は全国に南部鉄の名を知らしめることとなり長きに渡り大野は繁栄していきました。平地でもなければ大きな川もない、そして目だった産業もない大野があれだけ開けている理由は江戸時代から始まる鉄産業の功績が大きいと云えます。
※大野鉄山の繁栄とは裏腹に当時の藩の財政には厳しいものがあり八戸藩は元々地元主体の請け負いであった鉄山経営を藩の財政圧迫から1267年に八戸藩の鉄山経営直営とし1269年には西町屋の石橋徳右衛門を支配人に晴山重三郎を下支配人に置き 今でいう本社的役割の日払所が大野に設される事となり、まさに藩営の中心となります。その後も長らく藩の財政を大野鉄山は支えて行く事となります。
【玉川鉄山たたら復元図】 大野六カ鉄山最大と云われる玉川鉄山(1880年代操業)の建屋跡の復元画像が残っています。 この内部でたたらと云われる製鉄が行われました。
【たたら製鉄の様子】 鉄造りの製法である「たたら製鉄」とは木炭と砂鉄を交互に投入しフイゴと呼ばれる人力装置を使い強制的に強風を送り込み炉の温度を高め(1400℃位)砂鉄を溶かし製鉄にする日本古来の製鉄技術で日本刀などは勿論この技術で作られています。現在の製鉄では石炭を加工し燃焼率を高めたコークスを用いての製鉄に代わっていますが原料が木炭ではなく石炭だけに不純物が多い事から2度精錬し製品となります。しかし、この西洋式高炉鉄においても完全に不純物を取り除くことはできず日本刀等の強固であり美術品としての美しさも求められる純度の高い製鋼法は現在でもたたら炉でしか作り出すことができないと云います。
有家川水系へと続く大野川源流に行く機会が有ったら川底を見てください。今でも大量の鉄滓が確認できます。画像の鉄滓は3年前の大野川源流付近の物で当時タオルに包んで保管していたのですがいつの間にか錆が生じ赤茶色に変化していました。この二つ塊を叩くと「カーン」と甲高くも柔らかい響きの良い独特な音色にどこか聞いたことのある懐かしい音で癒しさえ感じる不思議な音が鳴り響きます。 (南部鉄器の音でしょうか) たたら製鉄は江戸時代から明治中期まで日本の鉄造りの中心でしたが輸入に関する関税制度もない日本に安価な鋼材が入り込む様になると急激に日本のたたら製鉄は衰退し1923年には国内における商業生産は終わりを告げます。
大野鉄山の終焉
八戸藩の財政を支え続けた大野鉄山は砂鉄の枯渇と安価な外国からの鋼材輸入により終焉へと向かいますが、その後も近隣地域で砂鉄が採掘され続けた事もあり久慈市に当時世界最大と云われる常盤商会の製鉄所が完成、北三陸地域はさらなる発展を続ける事になります。
【常盤商会製鉄所 大正15年頃】
日本は愚か世界最大とまで云われた常盤商会の製鉄所も枯渇、需要などの影響で常盤商会は撤退しますが日清、日露、1914年に始まる第一次世界大戦への影響もあり鉄の需要は急激に高まり鉄の価格は上昇、鉄の増産が求められた経緯から1937年に砂鉄の埋蔵量を調査した結果、600万tもの埋蔵量があるとの試算結果が判明すると鉄山事業の再開発を決定する事となり八戸市との激しい工場誘致合戦の末、久慈市に川崎製鉄が久慈製鐵所を設置、1939年に操業を開始します。この影響もあり良質な鉄作りには欠かせないマンガン鉱石(鉄と混ぜ合わせる事により強度が増す為、鉄造りには欠かせない鉱物)が大野鉄山から三度採掘される事となります。
【ドバ砂鉄の坑道堀の様子】
大野鉄山の操業は終戦後も昭和40年頃まで続いたようですが製鉄技術の進歩からスクラップからの再生が行われる様になると鉱山採掘から始まる原価の高いこれまでの粒鉄からの製鉄造りでは採算が合わなくなり同時に粉塵公害も問題視される様になります。その結果、昭和42年に川崎製鉄久慈工場は閉鎖され大野鉄山の歴史にも幕が閉じられます。
【大野鉱山坑道跡】
大野の山に入れば未だに多くの坑道跡がある事に驚きます。
昭和50年代までは坑道跡も入り口からしっかりと残っており安易に中に入れたものですが現在では陥没、亀裂、土砂の流入などの影響で部分的に確認できる状態であり簡単には入れない状態です。
【大野鉱山坑道跡】
学生の頃は何の洞窟なのかも分からず興味本位で中に入ったものですが坑道の中には縦穴と呼ばれる直角の落とし穴とも云える坑道があり大変危険なそうです。中学生の頃、親に洞窟探検の話をしたところ縦穴の話をされ行くなと怒られた記憶があります。
【大野鉱山跡 源田地区】
大野六ヶ鉄山が繁栄したのは江戸時代。藩営の中心とまでなった大野六ヶ鉄山でしたがその後、枯渇と需要が無くなり、いつしかその名は無くなります。しかし鉄の需要が求められた戦争の影響もあり大野鉄山は昭和まで存続し続けたのです。
【火薬庫】
鉱山には発破の際の火薬庫がありました。大野にも勿論存在しており確認できます。一つ不思議なことがあります。画像で分かると思いますが、いったい何の素材で作られているのか山中にも関わらず原型を留めるどころか一部、錆がある程度なのには驚きます。
【大野鉄山 火薬庫】
別な山中で確認した火薬庫と思われる建物ですが今から52年前の川崎製鉄が廃業した1967年に建てたと考えても不思議なほど原型を留めています。水中で発見した鉄滓は真っ黒でしたが空気に触れたことにより錆が生じた現象を考えると湿気の多い山中が為に起こっている現象という事だけなのでしょうか。
【大野鉱山選定所跡】
大野の山中に鉱山建造物が令和に入った今でも現存しています。
【大野鉱山 選鉱場跡】
現在も残る大野鉱山跡地、ここで採掘された鉱石は久慈市にあった川崎製鉄へと運ばれました。10mにも及ぶコンクリートの基礎、その上にある鉄骨で作られた建造物、いったいどうやってこれほどの資材を山中に運び入れ建造したのでしょう。当時の苦労が偲ばれます。
鉱山の繁栄を願い建てられた鉄神社も奥深い山中に現在でも鳥居のみですが現存を確認できました。
私が中学生~高学生の頃は大野鉄山跡の坑道は洞窟探検としてよく向かったものです。それは何のために掘られた洞窟なのかもわからない神秘に満ちた探検でありましたが社会人になりこの鉄山跡が当時、日本を代表する2大鉄山跡である事実を知った時には驚いたと同時に興味が沸き起こり子供の頃の記憶を頼りに鉄山坑道跡に何年も通っています。確認できた画像の一部を掲載させていただきましたが私が中学生の頃はこんな程度のもではなく何ヶ所も坑道跡があり結構な規模だったと思います。現在では埋もれてしまったのか発見できないのか昭和40年代まで残っていた大野鉄山坑道跡地は発見できていません。当時の繁栄を取り戻すことは不可能でも大野を微力ながら少しでも盛り上げていければと私たちは活動しています。それは本当に微力な事なのですが。